2010年2月27日土曜日

女子会にて

30半ばを過ぎた既婚者ともなると、20代のこれから結婚しようかどうしようかという子らから、

「ぶっちゃけ、結婚て、どうなんですか?」

と訊かれることが、ままある。しかも彼ら、唐突に聞いてくる。どうて、何がどうよ。
私は男性遍歴の無い既婚者なので、例えば恋愛の相談なんかをされても、何をどう答えていいのかわからない。しかし、「結婚てどう?」というだけの質問なら、私なりに答えられる。

結婚とはただの社会的慣習である。愛し合う二人が必ずしも結婚すべきかというと、そんなことはない。
性癖の相性がいいという相手ならばセフレで充分かもしれない。結婚生活は、婚姻の契約をすることで何のメリットも無いなら、多分長続きしない。

人の顔を見ると「結婚しないと淋しい」「子供の顔が見たい」という社会的慣習から逃れられなかった年寄りがよくいるが、気にする必要は無い。
また、無償の愛とやらをバカみたいに求めて、ひたすら相手を貪り尽くすようならば、婚姻の契約は破棄してもいい。お互いに首を絞めあう夫婦が世の中にいるから、結婚や家庭といったものが貶められ、ハリボテのような見苦しい体裁だけで体面を保とうとする世の中になるのである。

社会的な「家族」という単位を、さも素晴らしいもののように社会は必死で刷り込もうとするが、非常に残酷な単位でもある。
私は小さい頃「みなし子」に憧れた。絵本やマンガやアニメに、「みなし子」が主人公の物語が多かったせいだろう。
人間、生まれてきたくて生まれたきた人なんて、誰もいない。みんな「親の都合」で、自分の意思とは無関係に生まれてくる。生命の衝動に私という魂が宿った。人はただ、縁あって、突き動かされて生きている。なのに「望まれて生まれてきた、いい親の子」だけが贔屓されて愛されるこの世の中が何気に気に食わない。

子供が父を知らず、自分のルーツ、根っこがどこにあるのかを知らないというのは、心もとない。婚姻の契約のある二人の間では、誰が父親かがわかる。結婚にはそんな利点もある。でも、今はDNAで父親が判る。もっと言えば、卵子だけでも殖えていける。

つまり、これまでの社会的慣習に固執する意味が、確かに薄れている。

何より私は、最高の恋愛経験が一度あれば、人生充分おなかいっぱいだと思う。それ以上何を望む必要があろうか。

我がダンナよ。
私たちの結婚という社会的慣習について、私たちはそろそろ真摯に答えを出さねばならない。
金も子宝も何も持たない私たちは、愛だけで10年も共に過ごしてきたアフォである。
この10年間に、何か目に見える形で築き上げたものが二人の間にあったら、また違った結果になったかもしれない。子供でも、資産でも。
ここまで夫婦が愛だけだったというのは、ひとつの奇跡だった。この後、愛だけで老いさらばえていけるだろうか。馴れ合って首を絞めあう人間関係は、夫婦でなくとも愚の骨頂である。
共に幸せであることを願っている。この後、私たち二人にとって、何が最良の選択であるか、しっかり現実を見据えて答えを出そうではないか。
 

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