2010年3月3日水曜日

出家女子宣言

人との関わりの中で、相手の要求を惰性で鵜呑みにする習慣に埋没してしまうと、もうその関係は「終わっている」。
要求を跳ね返すみずみずしいエネルギーが無いということだから。

満たされた部分に関しては、人間、興味を抱かないものだ。
満たされない部分を求めて、人は奪い合いをはじめるのだ。
充足していれば、奪い合う必要は無い。
でも、充足しきって動かなくなった人間は、かなり見苦しい。
絶えず移ろい、変化し続けるものは、新陳代謝もよく美しい。

私は思う。支配欲や所有欲のままに他人を支配し、服従させるということは、実は酷く恐ろしいことでもあると。

職場のパワハラやDVのカップルを見ていると、つくづくそう思う。
人間を「操縦する」ことが、生易しい悦楽だと勘違いするのは、その傲慢さから身の破滅をもたらすのだろう。それでもやるのならば、よっぽど上手にやらねばなるまい。

あらゆる人間から「自由」を欠いてはならない。それは私の願いである。


ところで。

まだダンナと子作りをしていた頃、合体している正にその瞬間、地震がきたことがあった。
もしこれで妊娠していたら、生まれてくる子の名前は「震(しん)」。「辰(しん)」でもよかった。
結局、震ちゃんは生まれてこなかった。きっと賢い子だったから、雲の上からこの世を見渡して「こんなところに生まれるのはやめておこう」と敬遠したのだと思う。
それより、あの状態で家が倒壊して死んでいたら、私ら夫婦はエラい姿で発見されるところだった。

いざダンナと「別れよう」という話になると、じわじわと悲しみがこみ上げてくる。それでわかる。ああ、私は確かにダンナのことを愛していた、もしくはダンナは私のことを愛してくれていたと。
ダンナがまるで死んだ人みたいに思えてくるのだった。そうして思い出すのは、楽しかった思い出ばかり。嫌なことは本当に出てこない。まだ完全に別れたわけではないけれど。

しかし、愛していて、必ずしもべったり一緒にいることが全てではない。愛を理由に共依存に陥って首を絞めあうようになると、これは愛ではない。
また、考えのあるもの同士が一緒にいるのはいいが、何の考えも無いもの同士一緒にいるのは危険だ。
一緒にいると、あれこれ要求が増えてくる。そのままの相手を認め合えたならいいのかもしれないが、案外それも難しい。

簡単に言えば、この先はお互いに経済的・精神的に自立できている者同士でないなら、共に家庭を築くという作業は難しいだろうということだ。
私たち夫婦には、今仕事も金も資産も負債も子宝も何も無い。にも関わらず、甘えた目的で共依存に陥るようになるぐらいなら、ここで腹を括って身軽になる選択をするのも致し方がない。

仲良く共に老いていける夫婦は、運が良い。

愛があっても共に過ごせないカップルはいる。それはそれで人生には別の昇華の仕方がある。
特攻に行った「じいさん」に操を捧げた「ばあさん」に出会ったことがある。(

「戦争でね、特攻でね。行く直前に結婚したの」
とばあさんは言った。
ばあさんはそれから恩給を貰いながら、ずっと一人暮らしだった。
「おじいさんも、生きていれば80近くになるのよ。」

それを聞いた瞬間の、私の背中に「羽が生えたような」ゾワゾワ感と、こみ上げる涙を、私は忘れられない。

確実に、ばあさんのうしろにじいさんがいた。

ばあさんは確かに24歳の若さで逝ったご主人を「おじいさん」と呼んだ。
じいさんに操を捧げたばあさんは、心に住むそのじいさんと共に歳を取ってきた。
きっと、自分が「おばあさん」と周囲に呼ばれるようになり、「だったら、あなたはおじいさんよ」ということだったのだろう。

恐ろしくもあり、美しくもあり。今の時代では到底考えの及ばない純愛があった。


申し訳ないが、私は「隠れリア充」だったかもしれん。別れるならば、この後はもう、出家だ。
私はダンナと一緒にいた十年に愛された事実だけで、今後輝いていけると思う。
再び誰かと結婚することは(よほどの億万長者に寵愛されるというのでない限り)無いだろう。
 

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