2010年3月9日火曜日

臨機応変な人々

随分前、NHKのBS特集『民衆が語る中国・激動の時代~文化大革命を乗り越えて』の4回シリーズを観た。
そこで反革命分子として大衆に晒される格好で、散々自己批判を強要された人が、それでも中共を認めているのに驚いた。

「党は自分の親だ。親だって間違うことがある。子はそれを許してやらなければならない」

と、その人は中共を許していた。

で、随分経った今、あれが、脳の海馬で記憶が自分の都合のいいように書き換えられる働きの一例だったと理解できた。
そうとでも思わなければやってられない。
あらゆる場面で、一生懸命現実と帳尻を合わせられるところまで合わせていって、どうにか腑に落ちる、キレイな理屈が誕生する。

強く望むなら、人間は何でもできる。
もしも生まれ出た魂の器に不満があるなら、少々大変かもしれないが、その器の入れ替えだって可能かもしれない。それを私は『嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)』のオチでそう思った。

アーニャはそれまで心酔しきっていた社会主義と祖国のルーマニアを捨て、英国に亡命する。

アーニャは自己矛盾に陥ることはないのか。もしかして、少女時代、むやみやたらに『人民のために』とか『国を愛してやまない』とかいう恥ずかしくなるほどクサイ台詞を吐いていたのは、それに反する想いが強く、それを振り切るために、あれほど強い調子でスローガンじみたことを言っていたのではないか、と思えてきた。年老いた両親に愛され、いつも良い子であり続けなくてはならなかったアーニャは、常にその時々の体制に適応しようと全身全霊を打ち込んできた。そのたびに、古い主義をきれいさっぱりぬぐい去っていく。アーニャがロシア語を忘れたことに驚いたが、あれは、アーニャの習性から来る当然の帰結だったのだ。常に勝ち組にい続けるための過剰適応という名の習性。~『嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)』より

母国語は、魂の容器だと私は思う。
魂の器の入れ替え。出所を捨て、母国語を捨て去って、それは恐らく脳の海馬で、記憶を自分の都合のいいように上手いこと書き換える働きのひとつ。

余程脳ミソの出来がよくないと成し得ない試練だろうが、ただ、そうまでして生きる意味って何なのか、私にはわかりかねる。
本人は自分をリセットして生れ変われたつもりでも、周りから見るとただの「嘘つき」にしか見えないし、誠実そうに見えても「嘘つき」と信頼関係を築くのは難しい。
なまじ記憶力が良いと、信頼してしまっていた人が突然つく、そのテの嘘に遭遇して、目の前で信頼関係が壊れる瞬間のストップモーションまでくっきり見えたりする。

人に清清しく信頼されるには、頑固ではない、それでいてご都合主義でない。やはり「ブレない」ということなのだ。

都合のいい記憶の捏造だけでなく、「ブレない」ためにも海馬はフル稼働するのだろう。冒頭の中共を許した人のように。

でも考えると、本人に嘘の自覚の無いそのテの嘘を、責めるのもどうか。海馬がそのような働きをする器官だから、その嘘は多くの人間にとって、性なのだとも言える。
どれだけ淋しくても、人と安易につながるのが難しいのは、この信頼を築きにくい人の性のためだと思う。

でも私は、私がひとりではないことを知っている。
誰も孤独だ。少なくとも孤独という共感で、その気は無くても、敵も味方も老若男女、大勢の人とつながっている。

色んな人がいる。生物多様性の時代だもの。

(過去関連記事)
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